似てない遺伝子

 彼の手が何も持たないのを見て、
 「あ、忘れたな」
 と言った。
 「……本当に、信用がないんだね」
 苦笑しながら、彼は膨らんだ肩掛けバッグを指差す。

 前回、私の部屋から彼がアパートまで歩いて帰るのに、
 寒すぎるから何か着るものを貸して、と言われたのだ。
 私は自分のスウェット上下を渡し、
 彼は着ぶくれてパンパンになりながらその日は帰っていった。

 それを返された。
 「ちゃんと洗濯してくれたでしょうね」
 睨みつけると
 「してないよ」
 いけしゃあしゃあと言う。
 「いいじゃん、一回しか着てないし。それに、はるちゃん俺の匂い好きでしょ?
ちょっと嗅いでみなよ」

 言われるがままに嗅いでみて、あ、と言う。
 え、と慌てて顔色を窺う彼。
 「え、なに。いつもの匂いでしょ?」
 「匂いが違う」
 呟いて、今度は彼を見据えて言った。
 「あなた、匂いが変わったね」
 「変わってないよ。部屋の香りが移ったんじゃない?」
 まるで弁解するように、彼はくどくどと申し立てた。

 好きになった人の、匂いも好きなら正解。
 テレビ番組などで匂いと遺伝子の関係が取り沙汰されて
 「体臭が好きな相手とは、遺伝子レベルで相性がいい」
 という情報を知る前から、それは私の中で導き出された答えとして
 確固とあった。

 初めて彼の匂いを嗅いで、「あ、好きだ」と思ったときに
 よかった、とホッとしたのを覚えている。
 「この人は、好きになっていい人だ」

 なのに。

 私といたかつての彼と、私といる今の彼。
 彼が私といなかった間に、彼の前には一人の女の人がいた。
 匂いの変化は、彼女の存在を思い出させた。
 彼と私にあいた空白に、彼女が介入しているような気がした。
 かつての彼と今の彼の間に、私の知らない彼がいる。

 現実に変わったのか、
 私の精神的な要因で変わったように感じられるのか、
 わからない。
 ただ悲しかった。

 黙り込んだ私の様子に、彼も察したのだろう。
 唐突とも思えるタイミングで話題を変えた。
 口調はあくまで明るい。
 今更またそのことを持ち出してやり合うのにも、
 疲れていた。
 彼を気詰まりにさせることも嫌だった。
 だからそれきり流してしまったが、
 しんみりとした悲しみは、私を浸した。

 彼との今があり、もう、遠く対岸へと押しやってもいいくらい過去のこと。
 しかしいまだに私の中に根を張っている。
 私の知らない彼が、
 知らない彼女といた彼の所作が、独り歩きする想像のもとに浮かんでは、
 かさぶたが剥がれジュクジュクと膿んだ。

 かつて彼の部屋で、
 彼のパジャマを抱き、顔をうずめながら
 「いい匂い。私の匂いと似てるよね」
 と言ったとき、
 「そう? はるちゃんの匂いは俺も好きだけど、似てないよ」
 と彼は首をかしげていた。

 心地よい体臭を感じる相手ほど、
 自分とは掛け離れた遺伝子を持っているという。
 「私とあなたは、遺伝子が全然似てないんだね」
 そのことに、妙な感慨を持って、寂しさを覚えた。
 私と彼とを分かつ、決定的な因子。
 違う二人。私の知り得ない彼。
 私と彼は、同一ではない。