罠かもしれない

 「はるちゃんにとって俺は、ネネちゃんのママのぬいぐるみなんだね」

 深夜一時。街灯の明かり。通り過ぎる車のエンジン音。
 私と恋人は、一つの缶チューハイを分け合いながら、行き場を失くした浮遊霊のようにふらふらと漂っていた。
 またつまらぬことで一方的に彼に感情をぶちまけた。
 憮然とした表情の私を見下ろして、彼は笑いながら、そう呟いたのだった。

 あの『クレヨンしんちゃん』の中で、ネネちゃんとネネちゃんママに嫌なことがあったとき、ストレス発散のために殴られるのが、ウサギのぬいぐるみである。
 通称「なぐられウサギ」「うさばらしウサギ」。
 彼の言わんとすることを、私はすぐに察した。

 「はるちゃんね、それがなくなったらどうなるか、考えたことある?」
 あくまでもふざけた口調で彼はそう続けた。
 アルコールでだらしなく弛緩した目と目が合う。
 「わかってるよ」
 「はるちゃんがそんな風にできるのは俺にだけ。俺じゃないとダメなのに」

 「そんなの」
 そんなの、わざわざ言われなくたって、
 一度別れた時に、嫌というほど思い知っている。
 私はあれを、彼からの「仕返し」だと思った。
 飼い犬のように、言うことをきいて、下手に出て、
 ずっと優しいふりをして、
 ある日突然翻された。
 足元をすくわれて、信じられない思いのまま、私は無様に一人になった。

 よりを戻した今も、
 「はるちゃんはそのままでいいよ」「はるちゃんには全面降伏でいくよ」
 散々甘やかされて、調子に乗せられている最中に、ふと恐ろしくなる。
 「これは罠ではないか」
 離れられないように仕向けて、また唐突に、私は地べたに叩き落とされるのではないか。
 あのとき舐めた泥の味が口中に苦く蘇る。

 彼を大切にしたい。失って、泣くのは私だ。
 しかし、日々の中で生まれ続ける感情の膿を、吐き出さずにはいられない。内に内に溜めこめば、その毒に侵されて私は潰れる。
 それは、彼にしかぶつけられないのだった。

 「どうしたらいい」
 いつものようにめそめそと始めた私を抱き寄せて、彼は言う。
 「大丈夫。だって放っておけないよ、こんなはるちゃんのこと。心配で」

 罠かもしれない。
 それでもなすすべなく、彼の胸に顔をうずめる。
 明日また私は、傍若無人に戻るだろう。