部屋のおもいで

 ハルはいまだに僕の部屋に入れない。

 六年付き合ったのちの僕たちの同棲生活が三か月で破たんして、お互い別々の部屋へ引っ越してからほどなく、僕は新しい彼女を作った。
 友人の紹介で知り合い、すぐに彼女との交際は始まった。

 その後結局彼女と別れて、僕はハルの元に戻ったわけだが、ハルは
「あんたの部屋になんて一生行かないよ」
 と言い張った。
 前の人の物は全部捨てたから。大丈夫だから、と一度連れて来たときは、玄関先に突っ立って靴も脱ごうとせず、しばらくジト目で室内を見回したあとに、
「こんな部屋は嫌いだ!」
 と乱暴に扉を閉めてしまった。

 それからは毎回僕がハルの部屋を訪れていたが、一年半ほどが過ぎた頃、ハルがふと「もう大丈夫かもしれない」と言い出した。
 二度目にハルが僕の部屋へやって来たとき。ハルは僕の差し出したクッションの上に座り込んだまま固まって、そこから動こうとしなかった。
 他愛ない会話を交わしながら、ただ時折視線だけが部屋の中をすばしこく這うので、だんだん僕も落ち着かなくなってきた。後ろめたいものなど何もないはずなのに、出来ることならハルが見たくないものは見ないように、その目を布か何かで覆い隠してしまいたかった。
「こんなグラス、持ってたんだ」
 テーブルに置かれた、僕の飲みさしのグラスを指差してハルが言った。僕は思わずぞっとした。
 そしてやはり、耐えかねたハルは爆発した。
「これも、あれも、彼女と一緒に買いに行ったんでしょ? 彼女が選んで買ったんでしょ?」
 矢は切っ先を光らせてあちらこちらに飛び散った。ハルと付き合っているときには持っていなかった物たち、ここに越してから新たに購入した物たちをすべて、前の人と結びつけて考えているらしかった。
「この布団でヤッたんでしょ? そのバスルームでも、ベランダでもヤッたよね?」
 こんなとき、男の僕がたじろぐほどに、ハルは“そのこと”を露骨に口にする。
「イヤだ、気持ち悪い。ここにいたくない。吐き気がする」
 膝を抱え込み顔をうずめて、苦しそうにうめいた。
 部屋中に前の人の気配がみっちりと詰まっているのだと、ハルは言う。今も彼女がいる、と。
 もう僕には“僕の部屋”でしかないその場所が、ハルにとってはいまだ“僕と前の彼女の部屋”であるらしかった。

 何がそんなに嫌なのか。何にそこまでこだわるのか。僕にはいまいち掴みきれず、どうすればハルの気が済むのか途方に暮れるばかりだったが、ハルには昔からそういうところがあった。
 僕がこれまで付き合ってきた彼女たちのこと、そのすべてを仔細に聞きたがった。

 何を答えたって、自分からえぐり出しておきながら決まって癇癪を起こし、険悪な事態になるのもわかっているくせに、なぜあえて知ろうとするのか。まるで、自分を痛めつけるかのように。
 彼女たちがどんな顔をして、どんな性格をしていたのか。どんな風に始まって、どんな風に終わったのか。
 僕が彼女たちを、どのくらい好きだったのか。
 私の想像はいつだってもっと悲惨になるから。それなら事実を全部知っておいた方がいいから、とハルは言う。詰問は、もちろんというべきか、過去の“そのこと”にまで及んだ。
「どんなことをしたの? 気持ちよかった? 私より気持ちよかった?」
 勢いに気圧されて、さすがに僕が言いよどむと、
「私は、一番でいたいの。私が一番でいたいの」
 と泣きながら地団太を踏んだ。
「一番だよ。ハルちゃんが一番だよ。一番かわいいし、一番気持ちいい」
 慌てて僕が答えれば、嗚咽はますます激しくなり、「バカバカバカ!」と遮二無二殴りつけられたりした。
 そのうち僕は、繰り返しぶつけられる一連の激情が、僕への単純なヤキモチからではないと気付き始めた。
 ハルは僕を見ていない。その目は僕を通り越して、かつて僕と付き合った彼女たちに向けられている。
 「僕を好きなあまり」というよりも、彼女たちの誰にも負けたくないのだ。そこから湧いてきている。僕の元彼女たちに抱く、ハルの敵意や憎しみは。
「比べないでよ、誰とも比べないで」
 あるとき事が済んだあとに、突然ムッツリとしてそう呟いたハルは、僕に抱かれながら僕のうしろに、一体何を見ていたのだろうか。
 過去の誰かと比較するようなことを、ましてそんなときに言うはずもないのに。ハルは勝手に僕の姿を借りて、自分で自分を追い込んでいる。

 これでも一度別れてからは、多少はおとなしくなったのだ。
 僕の部屋に色濃く残る(とハルが言う)女の人、その馴れ初めや彼女の歳や職業や、以前だったら根掘り葉掘り問い詰めるところを、ハルはそこまで追求しなかった。
 こらえているのだ。心底は、聞きたくてたまらないのだろう。
 僕は、別れてすぐに新しい彼女を作ったことを、一度もハルに謝らなかった。
 自分を薄情だと思いはしても、結局は二人が別れたあとのことだ。ハルはしつこくそれを責めたが、謝れと言われても、僕に謝る道理はない。
 そのとき僕たちの恋人関係は、すでに切れていたのだから。
 しかしこうして今、かつての質問狂が知ることに怯え、知らずにいることを自らに課しているような態度を目にすれば、そこにいじらしささえ感じるのだった。
 僕はこの人をひどく傷つけたのだな、と思った。

 ハルは僕に、早く引っ越せばいいと言う。
「あ、でもこのままだと、今の部屋を思い出すときは自動的に彼女の思い出もくっついてきちゃうのか……どうしよう」
 本気で頭を抱えている様が可笑しいので、言ってやった。
「俺は、いまだにハルちゃんと暮らしたあの部屋のことを思い出すよ。たった三か月だったけど、そっちの思い出の方が強いよ」
 ふうん、と返事をしたあとで
「私はもうあんまり覚えてないけどね」
 アハハ。ざまあみろと言わんばかりに笑う、僕の今の彼女である。