雪の日の日記

 アパートを出たときは、
 空から落ちる白い粒が、髪やコートの上をパラパラとこぼれていく程度だった。

 集合時間を二十分過ぎ、寝起きで鼻声の恋人と合流する。
 ビルの九階。昼時に足を踏み入れたビュッフェの店は、
 平日ということもあってか客はまばらで、
 案内された窓際の席は少し寒かった。

 広々とした店内の一角に和・洋・中のおかずにサラダ、デザートが
 ギュッと並ぶ。
 一回りして、「全種類食べる」という心意気でまずはサラダから
 取り皿へと盛りつけた。

 時間無制限とはいっても、一時間も食べ続けていれば
 お腹は十分に膨れてしまう。
 対して恋人は、まるで満腹中枢を破壊されたマウスのように
 いつまでもダラダラと食べ続けていた。

 半ば呆れつつ目の前の彼の姿を眺めながらふと、昔のことを思い出した。
 私には、食べられない時期があった。
 その頃は、恋人と飲食店に入っても、
 ラーメン大盛りに半チャーハン+餃子などを平らげる彼の横で
 私はドリンクを啜るだけ、というのがお決まりで、
 それでも彼は
 「食べられないんじゃ、しょうがないよね」
 と笑っていた。

 けれど、忘れもしないクリスマス。街も人々もきらめいていた。
 今日くらいどこかで美味しいもの食べようよ、という彼の提案に
 私は頷くことができなかった。
 そして彼は、耐えかねたように言ったのだ。
 「俺は、はるちゃんと一緒に美味しいもの食べたいんだよ」
 責めるように、
 「なんで食べられないの?」と。

 悲しくて悔しくて、人目も関係なく、涙が出た。
 私だって食べたいのに。
 もう帰る、と踵を返した私の腕を慌てて掴み、彼は「ごめんね、ごめん」と
 謝り通した。
 彼もまた、少し悲しそうだった。
 強く手首を握られながら、
 「この人は、何もわかってくれないんだ」
 と、絶望みたいに途方に暮れたのを覚えている。

 いまだに、人と食べる喜びはよくわからない。
 人数が多いとシェアして色々食べられるからいいな、というくらいだ。

 それでもこうして、
 恋人が私の前で、ニコニコしながら、気詰まりなく、
 食事を楽しめるようになれてよかった。
 世の彼氏が、彼女といて当たり前のように感じる喜びを、
 彼が感じられているならよかった。
 一緒に食べられるようになれてよかった。
 見回した他のテーブルに着く人たち、
 (食べることは普通のこと、
 「食」に対して、ねじれた罪悪感も執着もおそらく持たない人たち)
 と同じように、
 溶け込んでいるように振舞える自分に安心する。
 いつだって、集団の中では悪目立ちするように思ってきた。

 ガラス窓越しに見た地上の景色は白くけぶっていて、
 ボウボウと音が聴こえてきそうなほど雪が降り荒んでいた。

 「ねぇヤバいよ。電車止まっちゃうかも」
 窓外を覗き込んで、彼も顔をしかめる。
 「そうだね、早めに帰ろう」
 そう言い合いながら、結局夕方までそこで過ごしてしまった。
 重くなった腹を抱えて乗り込んだ電車は、地獄の混雑だった。

 最寄り駅に着き外へ出ると、
 靴が埋もれるくらい雪は降り積もっていた。

 傍らの雪を掴んで私にぶつける彼。
 もう、と怒ってみせながら、冷たさにためらって何もできずにいると、
 彼は自ら雪玉をこしらえて差し出し
 「思いきりぶつけてくれ」
 と言う。
 寒さに身震いしながら彼を雪まみれにしているうちにアパートへたどり着いた。

 私の部屋で、二人にとってありがちな時間を過ごし、
 私は、チューハイのロング缶を飲んだ彼がまた寝るのではと危惧していたが、
 彼は眠らなかった。

 「そろそろ帰るよ」
 腰を上げた彼に
 「本当に大丈夫なの? 帰れる?」
 と聞くと
 「だって、俺がいたらはるちゃん眠れないでしょ」
 そう言って、防寒のために深くフードをかぶった。

 すっかり様相を変えたアパート前の白い道を、
 恋人は「じゃあね」と手を振り帰っていった。
 舞う雪で霞む後ろ姿を見送りながら、
 「当たり前のことなんてない」
 「当たり前の幸せなんて、ない」
 それは唐突に、降ってきた。
 「あの人を、失くしたくないな」

 部屋に戻りドアを閉めても、
 エアコンからは暖風を送る音が、
 外からは近所の人が雪かきをする音が聴こえ、
 しんしんなんて静けさとは無縁だった。
 この雪の日に、私は浸ることはしなかった。