好きかどうかわからない

 2016年12月9日――。
 私と恋人は上野の美術館で「ダリ展」を観て、そのあと焼肉屋へ行った。
 アメ横脇の路地を地下に降りて入った店は「70分 食べ放題・飲み放題1500円」のコースを掲げていて、懐のさびしい私たちは心置きなく食事を楽しむことができる。
 目の前の七輪で彼が焼く肉は豚と鶏のみ(このコースに牛は含まれない)。酒のグラスを次々と空け、酔客の喧騒と煙の立ち込める店内で、酔った状態では話さないようにと決めていたのに、私はウッカリ彼にそれをこぼしてしまった。
 私は、なんだかずっと不安だった。

 別れた彼と再び頻繁に会うようになってから、三か月が経っていた。
「彼女とはもうとっくに別れた」
「やっぱりはるちゃんじゃなきゃダメだってわかった」
 そう言われて、なんとなくヨリを戻したような雰囲気になっていたが、三か月経って、私たちはまだキスもしていなかった。
 はっきりしない状態にいると、頭はどうにも自分の中のちりほこりが気になってきて、あちらこちらの隅をさらって追及したくなる。
 結局私は、一人になるのが怖いだけなのかもしれない。
 あの人がいなくなったら、私は本当に、一人になる。そうなるとすべてが切迫してくる。
 彼といて得られる軽薄な精神の余裕や、そういった一切を失うのが怖くて。
 かといって新たな恋に向ける希望などなく、それで引き留めているだけなのだろうか。
 しかし相手は、かつて私をひどく傷つけて、トラウマのようにコンプレックスを植え付けた人である。
 そんな人に、私はすがっているのか。
 私は私のプライドも守りたくて、この気持ちの正体がわからない。

「言ってよ」
 先を口ごもった私に、彼はそう促した。
 あいかわらずジョッキを片手に網の上の肉をつつくばかりで、果たして何を思っているのか。傍目にはわからない。
「うん、だからね」
 だからもう会わない方がいいのかな、と私は言った。
「私、あなたのこと本当に好きなのかな」
「好きだよ」
 唐突に、彼が言った。
 私は瞬間ポカンとして、聞き返す。
「私が、あなたを?」
「うん」
「しがみついてるだけじゃないのかな」
「それはないよ」
 ふてぶてしいほどに平然と言ってのける彼と、七輪越しにしばらく見つめ合った。だいぶ飲んではいたが口調はしっかりしていたし、ふざけた調子でもなかった。
「まあ、好きだと思うけど……」
 恥ずかしさから言葉は尻すぼみになり、私は顔を俯けた。
 誰かに後押しされたかったわけでもないのに、当の本人に「おまえは俺のことが好き」だとハッキリ言われて、やっぱりそうだよな、と嬉しかった。
 私は彼を“ちゃんと”好きなんだ、と単純に安心した。


 今思えば、あの強い断定には、怒りが含まれていたのだ。
「好きかどうかわからない」
 他でもない私に言われて、彼はあのとき怒っていた。
 そして彼の前で素直に胸の内を開いてみせた私は、無邪気に彼を傷つけていたのかもしれなかった。
 今ではもう、そんなことは言わない。

ハンアンコタとやさしさ

 「やっぱり俺アル好き」
 ワインボトルを一本開けた頃、ほろ酔いの恋人が言った。
 「AL(アル)」とは、元andymori小山田壮平さんらのバンドである。恋人は、小山田さんの作るandymoriの曲も大好きだった。
 ALの「ハンアンコタ」という曲を一緒に聴いた。

 どうしようもなく、やるせなくて懐かしい、郷愁みたいなものが胸に迫る。
 私にとってそれは夕方の、金色に光る商店街の風景。
 そこに立つ、何もかもが気に入らない不機嫌面のかつての自分と、何物にもなれない諦念面した今の自分の姿が二重になって浮かんだ。

 今の不安定な情緒と相まって、思わず目が潤む。
 そんな私を見て彼は、「ね?」と満足そうにほほえんだ。

 『きっと君にも色々とあるだろうけど
  めげないでいこうぜって僕は歌う』

 希望が胸に突き刺さる。
 嘘ではない優しさと、信じられるだけの重みが、ここにはある。

 「この人たちにしか作れない音楽だよ」
 嫉妬と羨望をにじませて、彼は言う。

 馴染めないから背を向けて、いじけたままでいることは楽だ。そんなものはどこにでも、そこらじゅうに転がっている。
 世界は美しいばかりではない。それでも愛おしいと、思える強さ。
 だからこそ、彼らは唯一無二なのだ。
 生きづらさの上でたどり着いた希望や優しさは、尊い
 そこに至るまでに、一体どれほどがあったか。
 知り得ないその背中に、思いを馳せる。

 「今度一緒にALのライブ行こうよ。きっと、とてもいいよ」
 うん。頷いて、彼の手を握った。

 優しくなりたい。
 本物の優しさが欲しい。
 自然に、心から、誰かのために何かしたいと思いたい。
 押し付けでも、自己満足でもない。
 優しさとは、なんだろう。
 繋いだこの手のぬくもりだけが、今たしかに実感できるもののすべてである私は、星の瞬きの源を探すように、考え始めた。

 


AL / ハンアンコタ

泣きたいだけ

 焼き上がった肉は固かった。
 筋が多く残っていて噛み切れず、最後は「エイヤッ」と勢いをつけて飲み込まなければならなかった。
 テレビも点いていない部屋で二人沈黙して、もそもそと肉をはむ。

 前日の水っぽい雪はやはり積もらなかったが、外気の冷たさは部屋にいても容易に想像できる。
 ここ数日、私はいろいろ億劫で、休日のその日もほとんどを寝て過ごしていた。

 「生気がない」
 くたびれた部屋着にすっぴんで出迎えた私を見るなり、恋人は言った。
 「肉はいいんだよ。やっぱり元気が出るよね。鬱にも効くんだって、はるちゃん」
 と大きな牛肩ロース肉を取り出し、彼は極寒のキッチンで下準備を始めた。
 私は別に鬱ではないが「ふぅん」と返事をして部屋に戻り、一人手酌でワインを飲んだ。

 「うん……肉、って感じ」
 嘘にならない精いっぱいの言葉をかけたが、彼は明らかに落胆していた。
 残念な肉を前に私は早々に箸を置き、隣で口を動かし続ける彼を眺めた。

 このところずっとむしゃくしゃしているのは、生理前だからだ。
 固い紙を握りつぶすような苛立ちも、張り付く眠気も無気力も、そのせいのように思う。
 些細なことで心が毛羽立ち、自分で自分を持て余す。
 仕事中、私の涙腺はシュンシュンとヤカンが沸騰する直前みたいな音を立てている。

 その主たる原因は、ホルモンなのだった。
 身体の周期的変動に、心が左右されている。
 身体に勝てない心。
 私の不安定さは、“敏感な感受性”“繊細さ”なんて大層なものではなく、単なる日頃の不摂生によるホルモンバランスの崩れからなのか。
 月一恒例のようにして、決まって情緒の暴動を起こす私は、なんだか愚かっぽい。

 そんなとき、
 やけくそみたいに甘えたくなる。
 真夏のチョコレートのように、ベタベタと彼に張り付いて、離れないで、絡みついていたい。
 決して愛おしさからではなく。
 滅茶苦茶に甘えるのも、滅茶苦茶な八つ当たりと同じ。
 暴力だ。
 中に渦巻く混沌もろとも私を投げつけて、理不尽に彼にぶつけたかった。

 現実には、飴玉ほどにも甘えられず、仏頂面の私を彼がひたすら気遣うだけだった。
 ぶってくれたらいいのだ。
 やけくそで甘えても八つ当たりしても、どうしたって消えないトゲトゲがあって。
 王様のように、私の中で傍若無人に振る舞う情緒を、身体の痛みで懲らしめてやりたかった。
 常にうっすらとある「罰してほしい」という願望が、酔いのまわった頭に浅はかに浮かぶ。

 別れ際にハグをして、いつものように彼は帰っていった。
 手渡されたぬくもりは、風に吹かれてすぐに消え、満たされない思いが残る。
 そんな私を、赤い月が見下ろしていた。

 その後すぐに生理が始まり、うずくまるほどの生理痛に思わず涙が出て、やっと私は安堵した。
 泣きたい気持ちだけは、バイオリズムなんて関係なく、本当は、いつだって泣きたい。
 泣きたいだけ。
 泣かせてくれる理由を、世界に、彼の中に探し続けている。

似てない遺伝子

 彼の手が何も持たないのを見て、
 「あ、忘れたな」
 と言った。
 「……本当に、信用がないんだね」
 苦笑しながら、彼は膨らんだ肩掛けバッグを指差す。

 前回、私の部屋から彼がアパートまで歩いて帰るのに、
 寒すぎるから何か着るものを貸して、と言われたのだ。
 私は自分のスウェット上下を渡し、
 彼は着ぶくれてパンパンになりながらその日は帰っていった。

 それを返された。
 「ちゃんと洗濯してくれたでしょうね」
 睨みつけると
 「してないよ」
 いけしゃあしゃあと言う。
 「いいじゃん、一回しか着てないし。それに、はるちゃん俺の匂い好きでしょ?
ちょっと嗅いでみなよ」

 言われるがままに嗅いでみて、あ、と言う。
 え、と慌てて顔色を窺う彼。
 「え、なに。いつもの匂いでしょ?」
 「匂いが違う」
 呟いて、今度は彼を見据えて言った。
 「あなた、匂いが変わったね」
 「変わってないよ。部屋の香りが移ったんじゃない?」
 まるで弁解するように、彼はくどくどと申し立てた。

 好きになった人の、匂いも好きなら正解。
 テレビ番組などで匂いと遺伝子の関係が取り沙汰されて
 「体臭が好きな相手とは、遺伝子レベルで相性がいい」
 という情報を知る前から、それは私の中で導き出された答えとして
 確固とあった。

 初めて彼の匂いを嗅いで、「あ、好きだ」と思ったときに
 よかった、とホッとしたのを覚えている。
 「この人は、好きになっていい人だ」

 なのに。

 私といたかつての彼と、私といる今の彼。
 彼が私といなかった間に、彼の前には一人の女の人がいた。
 匂いの変化は、彼女の存在を思い出させた。
 彼と私にあいた空白に、彼女が介入しているような気がした。
 かつての彼と今の彼の間に、私の知らない彼がいる。

 現実に変わったのか、
 私の精神的な要因で変わったように感じられるのか、
 わからない。
 ただ悲しかった。

 黙り込んだ私の様子に、彼も察したのだろう。
 唐突とも思えるタイミングで話題を変えた。
 口調はあくまで明るい。
 今更またそのことを持ち出してやり合うのにも、
 疲れていた。
 彼を気詰まりにさせることも嫌だった。
 だからそれきり流してしまったが、
 しんみりとした悲しみは、私を浸した。

 彼との今があり、もう、遠く対岸へと押しやってもいいくらい過去のこと。
 しかしいまだに私の中に根を張っている。
 私の知らない彼が、
 知らない彼女といた彼の所作が、独り歩きする想像のもとに浮かんでは、
 かさぶたが剥がれジュクジュクと膿んだ。

 かつて彼の部屋で、
 彼のパジャマを抱き、顔をうずめながら
 「いい匂い。私の匂いと似てるよね」
 と言ったとき、
 「そう? はるちゃんの匂いは俺も好きだけど、似てないよ」
 と彼は首をかしげていた。

 心地よい体臭を感じる相手ほど、
 自分とは掛け離れた遺伝子を持っているという。
 「私とあなたは、遺伝子が全然似てないんだね」
 そのことに、妙な感慨を持って、寂しさを覚えた。
 私と彼とを分かつ、決定的な因子。
 違う二人。私の知り得ない彼。
 私と彼は、同一ではない。

雪の日の日記

 アパートを出たときは、
 空から落ちる白い粒が、髪やコートの上をパラパラとこぼれていく程度だった。

 集合時間を二十分過ぎ、寝起きで鼻声の恋人と合流する。
 ビルの九階。昼時に足を踏み入れたビュッフェの店は、
 平日ということもあってか客はまばらで、
 案内された窓際の席は少し寒かった。

 広々とした店内の一角に和・洋・中のおかずにサラダ、デザートが
 ギュッと並ぶ。
 一回りして、「全種類食べる」という心意気でまずはサラダから
 取り皿へと盛りつけた。

 時間無制限とはいっても、一時間も食べ続けていれば
 お腹は十分に膨れてしまう。
 対して恋人は、まるで満腹中枢を破壊されたマウスのように
 いつまでもダラダラと食べ続けていた。

 半ば呆れつつ目の前の彼の姿を眺めながらふと、昔のことを思い出した。
 私には、食べられない時期があった。
 その頃は、恋人と飲食店に入っても、
 ラーメン大盛りに半チャーハン+餃子などを平らげる彼の横で
 私はドリンクを啜るだけ、というのがお決まりで、
 それでも彼は
 「食べられないんじゃ、しょうがないよね」
 と笑っていた。

 けれど、忘れもしないクリスマス。街も人々もきらめいていた。
 今日くらいどこかで美味しいもの食べようよ、という彼の提案に
 私は頷くことができなかった。
 そして彼は、耐えかねたように言ったのだ。
 「俺は、はるちゃんと一緒に美味しいもの食べたいんだよ」
 責めるように、
 「なんで食べられないの?」と。

 悲しくて悔しくて、人目も関係なく、涙が出た。
 私だって食べたいのに。
 もう帰る、と踵を返した私の腕を慌てて掴み、彼は「ごめんね、ごめん」と
 謝り通した。
 彼もまた、少し悲しそうだった。
 強く手首を握られながら、
 「この人は、何もわかってくれないんだ」
 と、絶望みたいに途方に暮れたのを覚えている。

 いまだに、人と食べる喜びはよくわからない。
 人数が多いとシェアして色々食べられるからいいな、というくらいだ。

 それでもこうして、
 恋人が私の前で、ニコニコしながら、気詰まりなく、
 食事を楽しめるようになれてよかった。
 世の彼氏が、彼女といて当たり前のように感じる喜びを、
 彼が感じられているならよかった。
 一緒に食べられるようになれてよかった。
 見回した他のテーブルに着く人たち、
 (食べることは普通のこと、
 「食」に対して、ねじれた罪悪感も執着もおそらく持たない人たち)
 と同じように、
 溶け込んでいるように振舞える自分に安心する。
 いつだって、集団の中では悪目立ちするように思ってきた。

 ガラス窓越しに見た地上の景色は白くけぶっていて、
 ボウボウと音が聴こえてきそうなほど雪が降り荒んでいた。

 「ねぇヤバいよ。電車止まっちゃうかも」
 窓外を覗き込んで、彼も顔をしかめる。
 「そうだね、早めに帰ろう」
 そう言い合いながら、結局夕方までそこで過ごしてしまった。
 重くなった腹を抱えて乗り込んだ電車は、地獄の混雑だった。

 最寄り駅に着き外へ出ると、
 靴が埋もれるくらい雪は降り積もっていた。

 傍らの雪を掴んで私にぶつける彼。
 もう、と怒ってみせながら、冷たさにためらって何もできずにいると、
 彼は自ら雪玉をこしらえて差し出し
 「思いきりぶつけてくれ」
 と言う。
 寒さに身震いしながら彼を雪まみれにしているうちにアパートへたどり着いた。

 私の部屋で、二人にとってありがちな時間を過ごし、
 私は、チューハイのロング缶を飲んだ彼がまた寝るのではと危惧していたが、
 彼は眠らなかった。

 「そろそろ帰るよ」
 腰を上げた彼に
 「本当に大丈夫なの? 帰れる?」
 と聞くと
 「だって、俺がいたらはるちゃん眠れないでしょ」
 そう言って、防寒のために深くフードをかぶった。

 すっかり様相を変えたアパート前の白い道を、
 恋人は「じゃあね」と手を振り帰っていった。
 舞う雪で霞む後ろ姿を見送りながら、
 「当たり前のことなんてない」
 「当たり前の幸せなんて、ない」
 それは唐突に、降ってきた。
 「あの人を、失くしたくないな」

 部屋に戻りドアを閉めても、
 エアコンからは暖風を送る音が、
 外からは近所の人が雪かきをする音が聴こえ、
 しんしんなんて静けさとは無縁だった。
 この雪の日に、私は浸ることはしなかった。

そこにいるふたり

 今日もまた、恋人は寝た。

 彼はアルコールが入るともうダメで、気付けば船を漕いでいる。
 缶ビール片手にテーブルに突っ伏して、
 フローリングの床に丸くなって、健やかな寝息を立てている。
 二人でいて、恋人が寝てしまうたびに、私は怒る。
 またか、とお互いが脱力するほど、
 何度でも何度でも、同じことで私たちは険悪になる。

 「はるちゃんも一緒に寝ればいいじゃん」
 「無理矢理にでも起こしてよ」
 そう言われても、私は人がいると眠れない。
 無理強いは、それがなんであれ申し訳なさとためらいがある。
 そして大概、起こしたって起きないのだから、
 そのことにまたイライラさせられる。

 恋人と同じ空間を共有しているとき。
 それぞれ好きなことをして過ごしたとしても、
 ただ意識だけは、“そこ”に残しておいて欲しいと思う。

 “一人”を望むけれど、
 一人でいるときの“一人”と、二人でいるときの“一人”は違う。
 たとえ相手に意識がなくとも、
 そこに二人がいる限り、
 そこに彼の存在がある限り、私にとっては異物であり、
 結局本当に一人のようにはいられない。
 他人の気配を感じる間は、私の精神が安らかに弛緩することはない。
 それならば、
 結局“一人”にはなれないのならば、うつつのままで。
 二人でいるなら、そこに思考も感情もある“二人”の方がいい。

 こと恋人に関して、彼と会う時間は
 自分の時間を犠牲にしている、という思いが強い。
 「私は私の時間を削って会っているのに」
 私を放って一人勝手に寝てしまう彼に、
 ただ単純に、傲慢に、腹を立てているだけとも言える。

 「寝ちゃダメだ、寝ちゃダメだ……」
 うわごとのようにそう呟く彼の姿は不憫だ。
 眠気で朦朧としながら、約一駅分の距離を歩いて帰る彼に対して
 申し訳ないとも思う。

 それでも、彼を見送りドアを閉めた瞬間、
 思わず安堵のため息が漏れる。
 そして閉じた部屋で一人、解放感に浸りながら彼を思い返し、
 「ああ好きだな」と再確認したりするのだ。
 まるで一緒にいるときよりもいないときの方が、
 彼のことを好きかのように。
 「実体」としての彼よりも、
 「概念」としての彼の方が、好きかのように。

 頭の中だけで完結してしまう彼への想いを、
 時に現実の彼自身が邪魔をすることがある。
 一人のときにこそ、(自分勝手な)想いは熟し、(自分勝手に)恋心は募る。

あなたとわたしの袋小路

 随分と、変わったものだ。
 手は繋いでいても、こちらに寄り掛かる心地よい重さは感じられない。
 私の恋人。

 「私たち、共依存の時期がたしかにあった」
 そう言うと、「うん」
 子供のように素直にうなずくので、
 あ、自覚はあったんだ、と逆に少し驚いた。
 「でもいつのまにか、あなたはそこから抜けたよね。どうしてなの? どうして変わっちゃったの?」
 「それは……」
 音楽をがんばっているから。
 彼は答えた。
 「まだ全然足りないけど、でも前よりは向き合っているから」

 「ふぅん」
 おもしろくない。
 「頼む、俺を捨てないでくれ」
 「俺、はるちゃんがいなくなったら本当になんにもないんだよ」
 泣き言を言いながら、しょっちゅう私の腰にしがみついてきた
 かつての恋人が、
 その髪を優しく撫でるのが、私は愛おしかったのに。

 売れないバンドマンの彼はずっと、
 「音楽」で食べていくことを目標にしてきているが、
 私は、「売れなければいいのに」とも思っていた。
 応援したい気持ちはもちろんある。
 けれど、いつまでもそうして、自信がないまま、
 私がいなければダメだと、
 私しかいないと、頼り続けていて欲しかった。

 私はといえば、彼しかいない。
 元来一人が好きなので、
 「会いたい電話したい、毎日ずっと一緒にいたい」
 そういった類の行き過ぎた要望で彼を困らせることはない。
 ただ、友人が一人もいない私にとって、
 恋人は親友の役割もまた担っている。

 それは、孤島の私と社会とをつなぐ、架け橋のような存在かといえば
 なんだかしっくりこない。
 架け橋、というよりも、彼は私の空気穴である。

 多くは自分について、
 偏ることなく俯瞰で捉えたいと考えている。
 しかし一人でいると、客観性を失う。
 自分の思い込みばかりが頭の中で闊歩して、視野が極端に寄る。どんどん自分の決めつけが強くなる。
 時折、むせかえるほどに充満した“自分”に自分が窒息しそうになる。
 そこに穴をあけて、私を薄めてくれるのが彼なのだ。

 「出た、またはるちゃんの極端」
 茶化されて、ああ、と我に返ることがある。

 ただ、詞を書きステージで歌う彼なのに、自分に酔うことを許さない。
 他人が自分に酔っている姿も、ひどく嫌う。
 許してくれない。
 私はたびたび感情的になって、その昂りをぶつけるが、
 彼はすぐさまとりなして場を収めようとする。
 それは自分の思いや自分自身がその程度のものだと、踏みにじられたような。
 私は少し傷つく。
 冷静さを突き付けられて、まるで自分がバカのように思えてくるのだ。
 「私は、他の人から見てもそんなにダメなのかな。他人に引け目を感じるのは、あなたがそう思わせているんじゃないの」
 「……わからないよそんなの」

 彼だけがすべてじゃない。
 しかし彼しかいないから、広い世界がわからない。
 二人だけではわかりえない価値観の存在、可能性を。
 二人だけの限界を、感じている。

 突然ブチ切れられたり、無茶な要望をゴリ押しで通そうとしたり。
 仕事で理不尽な目に合うと、恋人のことを考える。
 それはもう自動的に。
 「私には、彼がいるから大丈夫」
 そして「あ、依存依存」と、自分をたしなめる日々である。