さみしさを知らない

 「人を求められる人は大丈夫だよ」

 かつて恋人と、もしも二人が別れたら、という話になったとき、
 「俺はダメになる」と嘆いてみせる彼に対し
 幾度となく言って聞かせた言葉である。

 実際別れたときには、彼はすぐに新しい恋人を作ったわけで、
 また同じことが起こったとしても、彼はやっていけるのだろう。

 いつだって、私が求めているのは、恋する相手である。
 それはむろん他人であるが、
 欲しているのはあくまでも自分の中の“恋情”で、
 純粋に他人なのかと問うてみれば、
 やはりそこには自分しかいないような、
 人を求めているわけではないのではないか、という気になってくる。

 対人において、私は「さみしさ」を知っているだろうか。
 ふとした拍子に考え込んでしまった。
 「さみしさ」と「孤独」は違う。
 孤独にフルボッコにされる夜は数多ある。
 人間の根源的な寂しさのようなものにも心当たりはあれど、
 「休日に一人で寂しい」「会いたいのに会えなくて寂しい」
 そんな感覚にはどこかピントが合わない。
 「恋人」という存在、その後ろ盾があってこそなのかもしれないが、
 一人でいたい。

 「人が好き」だと、ためらいなく口にできる人に憧れる。
 人との交遊、そこで心からの充実と楽しさを感じられる人間に、
 強い嫉妬と羨望を抱くことがある。

 しかしだからといって、そんな人達の真似をしてみても
 飲み会や遊びの約束が続けば、どんどん自分の首を絞めていく。
 結局すぐに身が持たなくなるのは目に見えている。
 だから、身分不相応なことは望まない。

 ただ、
 身近な人が悲しんでいるときに、何もできない。
 そのときばかりは、こんな自分を激しく悔やむ。

 彼は、恋人以外で初めて、自分の書いたものを読んでもらった人だった。
 普段ちゃらけてばかりいるくせに
 「お世辞抜きで、とてもよかったよ」
 と真面目な顔をして言うものだから、
 嬉しくて、隠れてこっそり泣いたのだった。

 その彼が今おそらく喪失と対面していて、
 自分に何かができるなんて驕ったことは願わない。
 せめて、気を使わせたくなかった。
 自分の中の深い悲しみにだけ、集中していて欲しかった。

 いつも通りに振舞う彼に合わせて、何も聞かず何も言わずにいたが
 果たしてそれでよかったのか。

 頭を鈍器で殴られ続けているかのような、重い、圧倒的な無力感。
 ここで何もできない。
 どうしたらいいかわからないのは、
 これまで人付き合いを避け続けてきたツケなのだ、と思った。
 他人の気持ちを推し量るのに、基となる経験があまりに少ない。

 人との関わりは私にとって、痛みを伴う摩擦である。
 大概が、自意識過剰に傷ついている。
 人前で自分のことを話せば、その薄っぺらさが露呈するようで
 それを見たくないがために、何も話したくないと思う。
 そして先のような場面に出会えば、
 自分の無力さを、突き付けられ思い知るのが嫌でまた逃げる。
 そのくりかえしである。

 たとえば絶望みたいな場所で、微かでも希望を見出せる。
 そういうものに心が震える。
 「私だって、誰かに小さな光を差し出せるようなものを書きたい」
 駄々をこねるようにして私は泣くが、
 ひとたびペンを取ってみれば、暗くひねくれたことばかりが溢れ出す。

 人を怖がらない。
 光とは、他者に対する愛のようなもの。

 わかっているのに、
 逃げ続けながら、追いかけ続けている。