なんて魔法的

 数年前、くるりのライブの最中に突如涙が止まらなくなったことがある。
「どうにもならないことってあるんだ」
 それは天啓のように閃き、実感となって身に浸み込んだ。
 アンコール曲も終わり会場が明るくなるまでずっと、私は泣きとおした。

 不思議な体験だった。
 Zepp Divercityで行われたそのライブは、くるりの二十周年を記念したライブシリーズで、かつての曲を中心に最新曲も織り交ぜながら、“今”の彼らが演奏した。

 恋人と別れて一年が過ぎた頃で、元恋人にはすでに新しい恋人がいて、それでも時々は二人で飲みに行った。
 愛しさや憎しみなど混在した感情は私の中にありありと残っていたが、彼の不在の存在を前に、自分がどうしたらいいのかわからなかった。
 同じくくるりファンである彼は、わざとかそうでないのか別日に行くと言っていて、「一緒に行けたらよかったのにね」という言葉も果たして本心なのか。東京テレポート駅まで向かうりんかい線の座席シートは、海の底みたいに青かった。

 言葉で説明するならあれは、「好きな人を“完全に”諦める絶望」だった。
 頭のどこかで「それでも」と願い、期待していた。
 『今日でさよなら 言わなきゃ』
 そう岸田さんは歌った。
 もう二度と、一緒に聴けない。
 興奮してライブの感想を伝え合うこともない。
 今後くるりが新曲を出しても、彼がどう聴いたか、私は知れない。
 別れるとはそういうことだ。反響する音楽の中で、唐突に、生々しく、私は理解した。

 けれど涙の理由は、それだけではなかった。
 たとえばあの曲やあの曲を、彼も好きでよく一緒に聴いたとか、ギターで弾き語りをしてくれたとか、そんな安直な感傷もたしかにあったかもしれない。
 でも思い出よりも、彼らの音楽が呼び起こしたのは「恋」だった。
 彼に対してではない。特定の誰か、外に向けたものではなく、自分の内へ内へとこもったもの。
 胸をぞうきんみたいに絞られてジャアジャアと、情動が私の中を浸した。
 心の琴線に直に触れられて、どうしようもなく涙が溢れる。
 恋の成分に至極似たものが吹き荒れ、私は嵐になった。灘の渦の中へ、感情がトリップしたのだ。

 音楽の魔法だ。空気の振動と周波数で、こんなにも揺さぶられる。
 よりによって某作曲家の方に、そんなことを話してしまった。その人は、
「いや、ちゃんとルールもセオリーもあるけどね」
 と困ったように苦笑していたが。
 またあるとき、どストライクな曲を見つけて恋人に聴かせたところ、曲も作る彼は訳知り顔で言った。「ああ、はるちゃんてこのコード好きだよね」
 どうやらそうとは知らず、同じコード進行の曲ばかりを好きになっていたようだ。

 そんなとき、「ちがうちがう、そうじゃない!」と地団太を踏む。
 そこには、響きの科学も作り手の意図も越えた何かがあって、胸を打つ。

 「もうダメだ」となったときでも、音楽に感動できるうちは大丈夫。
 そんな信念めいたものが、私の中に漠然とある。その何か、湧き上がるものを感じたとしたら、それを感じ取れる力が自分にまだ残っているということだ。

 あのライブの日、獣のように泣きながら私は、「まだ大丈夫だ」と、思っていた。