バンドマンと結婚

 給与明細を開いて思わず取り落としそうになった。
 体調不良で欠勤、早退と続いていたから、少ないだろうとは予想していた。
 しかし明細に記載された金額。掛け持ちのバイトも辞めた今、これではやっていけない。
 自分の顔が青ざめる音というのは、実際に「サッ」と自分の耳に聴こえる。
「……親に借りるしかないか」
 重い指先で、近々実家に一度帰る旨だけ母親にLINEした。
 お金なんてなくたって、やっていける。食費も光熱費も、切り詰めればなんとでもなる。そう高をくくっていた。
 それが、現実にこうしてどうにもならない数字を突き付けられると、“お金がない”そのことに、

「ぽろぽろ涙が出てくるんだよね。切なくて」
 モツ焼き屋の小さなテーブルに向かい合う恋人に私は言った。
「ああ、そうでしょ」
 訳知り顔で、彼はレバー串にかぶりつきながら答える。
 そこは彼が職場の後輩から勧められた店で、見た目は渋い大衆居酒屋という感じだが、客は地元の若者たちが多いらしく、店内BGMも明るいJポップが流れていた。
 名物の牛すじシチューをはじめ、ハラミユッケ、串でカシラ、ハツ、シロなどまさにゾウモツばかりがテーブルに並ぶ。
「まぁ、親に頼むしかないよなあ」
 と続けて言われて、それがまるで他人事のようで、他人事には違いないのだけれどふと腹立ちと不安を覚えて聞いた。
「もし結婚して、同じ状況になったとしてもS君(恋人)はそう言うの? 俺が、っていう気はないの?」
「そりゃ、俺に援助出来るくらいの額だったら出すよ。……でもなぁ、俺は俺でこのまま音楽は続けていくし、就職するつもりもないし、どうしてもってときは、やっぱり親に助けてもらうしか」
「それは、それはじゃあ結婚してもお財布は完全に別々って、そっちはそっちで、こっちはこっちでってことなんだね」
「その方がうまくいくと思うよ」
 事も無げに言われて、わかっていたはずなのに、ショックを受けていた。
「俺たちは、お互いが自分のことしか考えていないからうまくいってるんだよ」
 かつてただの恋人同士だった時に言った彼の言葉が、今結婚に際して皮肉な響きを持って思い出される。

 養ってくれとまでは言わないが、「俺が多めに稼ぐから、はるちゃんは今までより少しはラクしていいよ」そんな言葉を期待していた。
 そう口に出すと、
「そういうのを望むなら、俺と付き合ってちゃいけないよ」
 彼もまた不機嫌を露わにして言った。
「そんな風に言うなら俺だって、はるちゃんがもし銀行とかで正社員として働いてたら……」
 彼の叔父もまた芸術家で稼ぎは少なく、銀行員である妻が家計を支えていた。それを引き合いに出しているのだ。
「だったら何? 私に養われて、自分は思う存分音楽ができるって? 男としてのプライドはないわけ?」
「そんなことは言ってないだろ」
 俄かに口調が厳しくなって、このまま続ければ泥沼になる。
 彼に対して、稼ぎに言及することはタブーなのだ。傷つけることはわかっている。
 ある男の人は「同棲してる彼女が仕事辞めて無職になっちゃって、このまま俺が養わなきゃならないのかなって、すごい不安……」と言っていたし、また別の男の人は「彼女にもっとちゃんと今後の仕事のこと考えてよって怒られて、将来的に俺の稼ぎアテにしてんのかよって、むかつくんだよな」と漏らしていたし、今どき男のプライドなんて持ち出すのは古いのだな、とハッとさせられたのだった。

 ただ、私は母に言われた一言が引っかかっていた。
 彼と婚約したことを報告した後に、
「一人暮らしだとやっぱりお金貯まらないし、しばらく実家に戻ってほどほどにバイトしながら貯金しようかなあ」
 と、八割本気で打ち明けたところ、母はたちまち顔を曇らせた。
「それ、Sさんはどう言ってるの? あんたね、結婚したらもう相手方の家に入るってことなんだから、そう無闇にウチは援助しないからね」
 それが、甘え腐った娘に発破をかけるための言葉で、真実困ったときにはきっと助けてくれると思ってはいたが、やはり衝撃は大きかった。
 結局、経済的に自立したように見えても、いざという時の後ろ盾としての両親の存在が私に安心を与えてくれていたのだった。

 結婚したら、頼れなくなるのか。途端に動悸が激しくなった。
 そもそも、結婚ってなんだ。家族ってなんだ。
 今でこそ自分で働いてなんとか生活していけているが、私には十代の頃、五年間引きこもっていた時期がある。
 またあんな状態になってしまったらと、いまだに自分にヒヤヒヤしている。誰にも会いたくない。一人でいたい。もう、外では戦えないと、来る日も来る日も一日中部屋にこもって過ごしたあの時期。
 今の私は、あの頃の私とは違うし、それなりに処世術も適当さも身に着けたつもりでいる。でも、もし。そう考えると怖くなる。
 親にも頼れない、彼にも迷惑はかけられない。
 まして、この先自分に守るべき存在が現れたとしたら。経済的にも肉体的にも、私が手を放したらすぐに息絶えてしまうような、小さな小さな存在が、私の前に現れたとしたら。
 のしかかるプレッシャーに、思わず足がすくむ。
 結婚するとは、家族になるとは、私が私一人では生きていけなくなるということだ。
 たとえば気持ちがダメになって働けなくなったとして、私一人であればその責任は私だけが負えばいい。(とはいえ「ごめんなさい」と泣きながら親に助けを請うだろう。親ならばいい、という身勝手な甘えから)
 しかし“結婚”や“家族”となった場合、私の責任は配偶者や子供に対しても及ぶ。もう無理、となっても逃げられない。逃げたら彼らに迷惑がかかるという、そのことが恐ろしいのだった。

 そもそも私は別居婚週末婚を希望していて、まして財布も別となれば、私たちはなぜ結婚するのだろう。
 左手の中指(彼がサイズを間違えたため)にはめられた婚約指輪を見て思う。
「かりそめだ」
 結婚を確約するものというよりも、「結婚してもいいくらいはるちゃんのことが好き」という彼の表明として、私は“これ”が欲しくて、だから喜んで受け取ったのではないか。
 “これ”が欲しかっただけではないのか?
 私は、彼とずっと一緒にいられればいいのだ。
「私たち、結婚しなくてもよくない?」
 ハツの最後の一かけを差し出してくれる彼に、さすがに口に出しては言えなかった。

 しかし、する前から不安がって、しないことを選んでばかりいてはいつまで経っても先には進めない、とも思う。
 いつまでもふわふわとしていて考えが浅い、子供っぽいと言われ、誰かを頼りにしてばかりいる私が変わろうと思うきっかけになるかもしれない。
 飛び込んでみて、ダメになりそうになったらそのときなんとかする。
 そういうものでも、いいのかもしれない。

 次々にやって来る客で店内が満席になったころ、私たちは腰を上げた。会計は、彼が少しだけ多めに出した。