信じるものは何

 珍しく恋人が「二人のことで歌詞ができた」と言う。
 売れないバンドマンの彼であるが、“彼女”について書いた曲はほとんどない。果たしてどんなものかと送られたファイルを開いてみた。

 それは、年月の手でなめされた二人の日常の中で「僕はこんな風に想っているよ」と彼なりの思いを綴ったものだった。
 彼らしいと言えば彼らしく、こそばゆい嬉しさがこみ上げる。

 しかし、どこか乾いた目で眺める自分がいる。
 たとえばそれがラブソングだとして、こうして何ということもなく、本人の前で披露できてしまう。まるで他人事のように。
 そこには虚構も脚色もあり、歌詞の中の彼と彼自身の気持ちには距離がある。現実の彼は安全地帯にいて、真に私的とは思えないのである。
 言葉が染み込まない。

「あなたは別に私じゃなくてもいいんだよ」
 ヒステリーを起こして、そんな風に彼に突っかかることがある。
「あなたにとって、私は代替可能なの」
「そんなことないってば。はるちゃんが思っているよりも俺は……」
 そのたびに彼は、いかに自分が私のことを必要としているか。私がいなくなればどうなるか、を説く。
 それにもそっぽを向いたまま、しかめっ面を続けていると、やがて彼はため息を吐いて言うのだ。
「ほらね。俺がこういうことを言うと、はるちゃんはすぐ疑う」
 信じないよね。呆れて、そして少し悲しそうに。
 私はまた、自分本位なばかりにこの人を傷つけているのかなと思う。防衛本能でガッチリと固められた私は。

 元々、彼が軽はずみ(と私には見える)に言葉を口にすること。言ったことをコロコロ変えるところが私は嫌いだったが、一度別れてからは特に厳しくなった。
「はるちゃんで詰みだ、って言ったくせに」
「あんたは嘘つきだ。うそつきうそつきうそつき」
「守れないことは口にするな。逆に、口にしたことは必死で守れ」
 かわいそうに彼はすっかりビビって、“絶対”のない未来の約束や気持ちの約束めいたものをあまり口にできなくなってしまった。
「そのときは、本当にそう思ったんだ。本当の気持ちだったんだよ」
 私に散々いじめられ、叱られた子犬のようにしょんぼりと彼は言った。
 たしかに、“絶対”を第一にすれば、私たちは何も言えなくなってしまう。さすがに胸が痛んで反省した。

 彼について、私が信じているものはなんだろう。
 考えたときに浮かぶのは、初めて裸で体を合わせたとき。その腕に抱かれて、壊れるほど早鐘を打つ彼の鼓動が私の胸をも叩いた。
 互いの体の確固とした境界線を破って伝わってきたものに、私は感動した。

 もうひとつは、付き合って一年経つか経たないかの頃であったと思う。
 当時勤めていた店の客が「俺は死ぬ」と言い出した。うなだれて、薄い笑いを顔に張り付かせたまま言った。
「もういいんだ全部。俺は近々死ぬよ」
 私はぞわぞわと怖くなって、しかし誰に相談することもできず、彼に泣きついたのだ。
 退勤後のその足で彼の部屋まで向かい、詳細は伏せたまま、事情を説明した。
 さすがに驚いたらしい彼はしばし黙り込んだが、すぐに、いまだ動揺を続ける私と向かい合った。改めて、しっかりとした口調で私を安心させようとし、具体的にできることを探してみせた。
 昂ぶり散らかった頭で聞くともなしに聞きながら、私はふと、目の端にあるものを認めた。
 それは、彼の手だった。私から隠すようにして後ろについた彼の手が、物も持てないほど、ガクガクと激しく震えているのだ。
 その瞬間に、崩れ落ちた。
 結局一件は「心配かけてごめんね」という客からのメールで落着したのであるが、だがあのとき。
 彼は、私の中の何かをぐしゃぐしゃにした。ぐしゃぐしゃにして、彼の前で私はむきだしになったのだ。震えるほどの恐怖と緊張を押し隠していた彼を、たまらなく尊いと思った。

 もう何年も前のことだ。
 でもずっと覚えている。あのときの、彼の胸の鼓動も、手の震えも。
 そういうものを、信じている。
 好意を表す「言葉」というものを、差し出されれば嬉しい。だがそれは、飾ることも偽ることも裏切ることも可能だ。信じるか信じないかは自分次第である。まだ私には、勇気が足りないのかもしれない。
 誤魔化せない身体の生理的反応をこそ、信じられる。

 最近彼は私への気持ちを表すのに、
「はるちゃんは俺にとって、死んだら一番悲しい人」
 と言う。
 それはそれで、素直で真実らしく、信じられそうだ、と思っている。